誘導牝馬
2001年12月24日野生の馬の話に戻ろう。
私は実際に野生の馬を自分で観察したことはないので、以下はカーチャとモンティ・ロバーツから得た知識である。
野生の馬は群れで生活しいている。一頭の牡馬を中心に、牝馬と仔馬が群れを作る。大人になった牡馬は群れを離れる。(そして若い牡馬同士で群れを作り、牝馬の群れのリーダーに取って代わるチャンスを虎視眈々と狙う。)
群れのリーダーは牡馬であるが、その役割は主に繁殖と、外敵から群れを護ることである。群れの中で、もう一頭重要な役割を果たす馬がいる。誘導牝馬と呼ばれる、大抵は年取った賢い牝馬である。
誘導牝馬は長年の経験と知識を生かし、群れを草場や水飲み場に導く。仔馬たちの教育をしたりもする。(社会性を身につけさせる)群れの馬たちは、彼女に信頼とレスペクトを寄せている。
馬に乗る人間は(少なくとも調教する人間は)馬にとって、この誘導牝馬と同じ存在でなければならない。つまり、馬の信頼とレスペクトを得、あなたについて行けば間違いない、私の身を委ねる、と言わせる。
私は実際に野生の馬を自分で観察したことはないので、以下はカーチャとモンティ・ロバーツから得た知識である。
野生の馬は群れで生活しいている。一頭の牡馬を中心に、牝馬と仔馬が群れを作る。大人になった牡馬は群れを離れる。(そして若い牡馬同士で群れを作り、牝馬の群れのリーダーに取って代わるチャンスを虎視眈々と狙う。)
群れのリーダーは牡馬であるが、その役割は主に繁殖と、外敵から群れを護ることである。群れの中で、もう一頭重要な役割を果たす馬がいる。誘導牝馬と呼ばれる、大抵は年取った賢い牝馬である。
誘導牝馬は長年の経験と知識を生かし、群れを草場や水飲み場に導く。仔馬たちの教育をしたりもする。(社会性を身につけさせる)群れの馬たちは、彼女に信頼とレスペクトを寄せている。
馬に乗る人間は(少なくとも調教する人間は)馬にとって、この誘導牝馬と同じ存在でなければならない。つまり、馬の信頼とレスペクトを得、あなたについて行けば間違いない、私の身を委ねる、と言わせる。
バスコ礼賛
2001年12月23日何度も言うように、とにかく素晴らしい馬だった。バスコに教われ、とカーチャが言った意味が段々分かってきた。私が間違った扶助を与えると、バスコは全く反応を示さない。しかし、正しい扶助を与えれば、いとも簡単に私が思うような反応を返してくれた。それをカーチャが見た範囲で良いとか悪いとか、もっとこうしろ、と指示を与える。2人の先生は完璧だった。
最初の内は、バスコが可哀想だから、もう降りろ、とカーチャに言われ、レッスンの途中で馬から降ろされたり、彼女がだめだ、これは、と言うように天を仰いで何も言わずにレッスンを放棄する、なんてこともあったが、私は少しずつ上手くなっていった。バスコが正しい反応をした時の感覚、手と、体重の乗せ方と、脚の使いかたを体で覚えた。それは、職人が、轆轤を回す時の力具合を練習に練習を積んで体にしみ込ませていくのに似ている。
バスコはその背の上で、カーチャと、何人ものカーチャの弟子たちを育ててきた。私が彼の最後の生徒になった。
最初の内は、バスコが可哀想だから、もう降りろ、とカーチャに言われ、レッスンの途中で馬から降ろされたり、彼女がだめだ、これは、と言うように天を仰いで何も言わずにレッスンを放棄する、なんてこともあったが、私は少しずつ上手くなっていった。バスコが正しい反応をした時の感覚、手と、体重の乗せ方と、脚の使いかたを体で覚えた。それは、職人が、轆轤を回す時の力具合を練習に練習を積んで体にしみ込ませていくのに似ている。
バスコはその背の上で、カーチャと、何人ものカーチャの弟子たちを育ててきた。私が彼の最後の生徒になった。
バスコのオーラ
2001年12月21日私の師匠、バスコはとにかく素晴らしい馬だった。当時20歳。もう現役を引退していて、馬としてはもうおじいさんだ。彼は色々なものを見、聞き、経験してきた。カーチャが完璧な育て方をしたので、全く健全な心を持っていて、(持って生まれた性格と頭も良いので)人間といる限りこの世の中に、死ぬほどやばいことはまずない、ということが分かっていた。彼は何事に対してもクールに反応した。一種、馬としての悟りを開いたような感じだった。
その落ち着いた雰囲気を馬たちも感じ取って、バスコが馬場に現れると、他の馬たちも不思議と態度が落ち着いたのだ。
その落ち着いた雰囲気を馬たちも感じ取って、バスコが馬場に現れると、他の馬たちも不思議と態度が落ち着いたのだ。
対処法
2001年12月19日当時私は、馬がコントロールを外れると、何もせずにただ馬の上に座っていたようだ。怖いというのもあって体が固まってしまっていたのだ。(ドイツの馬は特に大きくて力が強い。)
人間だって、物音に驚いて飛びのくことがある。馬だって同じことをする。しかし、人間を乗せているときはある程度のことを我慢するのが育ちのいい馬なので、そういう場合、人間は馬に扶助を与える。脚を締め、深く鞍に座り、手綱を強めに握って、私がここに座っているのだから、物音よりも私に注意を向けなさい、ということを馬に確認させる。逆に人間がなにもせずに座っていると、馬は人間を忘れて好き勝手なことを始める。私は後者の反応をしていた。
カーチャが口でそういう場合はこうしろ、と言うのは分かっていても、少しでも恐怖心があると体が動かない。どうすればいいのだろう?
ある友人の言葉がヒントになった。彼女は毎日人を乗せては飛んだり跳ねたりする、気性のかなり激しい牝馬を持っていた。怖くないの?と尋ねると、彼女は、勿論怖い、と答えた。でもそういう時には、笑うことにしているの。
やってみた。そういう時に、怖いと思ったら、あははと笑うことにした。そうすると不思議と体が硬くならず、頭も冷静なまま行動することができるのだ。
人間だって、物音に驚いて飛びのくことがある。馬だって同じことをする。しかし、人間を乗せているときはある程度のことを我慢するのが育ちのいい馬なので、そういう場合、人間は馬に扶助を与える。脚を締め、深く鞍に座り、手綱を強めに握って、私がここに座っているのだから、物音よりも私に注意を向けなさい、ということを馬に確認させる。逆に人間がなにもせずに座っていると、馬は人間を忘れて好き勝手なことを始める。私は後者の反応をしていた。
カーチャが口でそういう場合はこうしろ、と言うのは分かっていても、少しでも恐怖心があると体が動かない。どうすればいいのだろう?
ある友人の言葉がヒントになった。彼女は毎日人を乗せては飛んだり跳ねたりする、気性のかなり激しい牝馬を持っていた。怖くないの?と尋ねると、彼女は、勿論怖い、と答えた。でもそういう時には、笑うことにしているの。
やってみた。そういう時に、怖いと思ったら、あははと笑うことにした。そうすると不思議と体が硬くならず、頭も冷静なまま行動することができるのだ。
感情が伝染る
2001年12月18日乗っている人の感情が馬に伝染るというのは、万人の認める現象である。馬は、相手が馬であれ人間であれ、そばにいる生き物の感情を感じとる。そして同じような感情を持つ。
それは、馬が逃げる生き物だということに起因しているように思う。危険が迫ったとき、自分がまだその危険に気付いていなくても、回りの生き物の感じた警戒心を感じて、いち早く逃げる。
だから、人間がリラックスして楽しく乗れば、馬もリラックスして楽しく運動できる可能性が高まる。ヒステリックな人間に乗られている馬はやはりヒステリックでナーバスになる。
馬が物音などに驚いて突然走り出し、乗っている人間がコントロールを失うことがある。そういう時大抵の人間は恐怖を感じる。自分を乗せている大きな力強い生き物が、暴走し始めるのだから。日本で乗っている時から、そういう時は怖がっていることを馬に見せるな、と教わった。人間が怖がると、馬がますます怖がるからだ。
ドイツに来た頃の私は、馬がそういうパニック状態に陥ったときの対処法を間違っていた。
それは、馬が逃げる生き物だということに起因しているように思う。危険が迫ったとき、自分がまだその危険に気付いていなくても、回りの生き物の感じた警戒心を感じて、いち早く逃げる。
だから、人間がリラックスして楽しく乗れば、馬もリラックスして楽しく運動できる可能性が高まる。ヒステリックな人間に乗られている馬はやはりヒステリックでナーバスになる。
馬が物音などに驚いて突然走り出し、乗っている人間がコントロールを失うことがある。そういう時大抵の人間は恐怖を感じる。自分を乗せている大きな力強い生き物が、暴走し始めるのだから。日本で乗っている時から、そういう時は怖がっていることを馬に見せるな、と教わった。人間が怖がると、馬がますます怖がるからだ。
ドイツに来た頃の私は、馬がそういうパニック状態に陥ったときの対処法を間違っていた。
逃げる生き物
2001年12月16日馬の最も特徴的な性質。それは危険が迫ったときに逃げるということだ。そのことを常に認識しているのは、馬と付き合う上で非常に重要である。
ある動物は、危険が迫ったら戦う。あるものはなんらかの方法で身を護る。馬は逃げる。(ホースウィスパラー、モンティ・ロバーツは人間を’戦う生き物’に分類している。)
馬は身に危険を感じると、人間を乗せているときでも逃げる行動にでる。そういう場合、人間の指令と違うことをしたからと言って、ただただ叱りつけるのは不条理だ。
例えば馬に乗っているとき、馬が馬場のそばに止まっている真っ赤な車を警戒して、近づこうとしないとする。ただただ闇雲に鞭でひっぱたいて、そちらに向かわせようとするのは多くの場合逆効果だ。(気合を入れるためにちょっとは鞭も使う。ケース・バイ・ケース)まず人は穏やかな声で話し掛け、自分はその物体を恐れていないことを示す。赤い車は馬を取って食いはしないことを説明したりする。そのうち馬は、人間の落ち着いた態度を感じて、なんだ、上が怖がっていないから、怖くないのかも。と人の態度を信用する。
信頼関係ができてから初めて為せる技だが。
ある動物は、危険が迫ったら戦う。あるものはなんらかの方法で身を護る。馬は逃げる。(ホースウィスパラー、モンティ・ロバーツは人間を’戦う生き物’に分類している。)
馬は身に危険を感じると、人間を乗せているときでも逃げる行動にでる。そういう場合、人間の指令と違うことをしたからと言って、ただただ叱りつけるのは不条理だ。
例えば馬に乗っているとき、馬が馬場のそばに止まっている真っ赤な車を警戒して、近づこうとしないとする。ただただ闇雲に鞭でひっぱたいて、そちらに向かわせようとするのは多くの場合逆効果だ。(気合を入れるためにちょっとは鞭も使う。ケース・バイ・ケース)まず人は穏やかな声で話し掛け、自分はその物体を恐れていないことを示す。赤い車は馬を取って食いはしないことを説明したりする。そのうち馬は、人間の落ち着いた態度を感じて、なんだ、上が怖がっていないから、怖くないのかも。と人の態度を信用する。
信頼関係ができてから初めて為せる技だが。
居食住
2001年12月15日野生の馬。彼らは草原に住んでいる。そこには光があり、風がある。草がはえているから、常に食べるものがある。
馬の厩舎はだから、風通しがよくなくてはいけない。いつも新鮮な空気がなければならない。そして、窓を作って光をとるようにするのが望ましい。(日本は夏が暑いのでそれも難しいが)餌は3度の食事のほかに、1日何度か乾草などを与えるのがよい。(太らせない程度に)水もいつも新鮮なものを与える。
そして週に何度かはパドックなどで、人を乗せずに自由に運動させてやるのがよい。(健康上の理由でやらないほうが良い場合もある)
私がドイツでいた厩舎はその条件が全て満たされた、馬天国のような所だった。
馬の厩舎はだから、風通しがよくなくてはいけない。いつも新鮮な空気がなければならない。そして、窓を作って光をとるようにするのが望ましい。(日本は夏が暑いのでそれも難しいが)餌は3度の食事のほかに、1日何度か乾草などを与えるのがよい。(太らせない程度に)水もいつも新鮮なものを与える。
そして週に何度かはパドックなどで、人を乗せずに自由に運動させてやるのがよい。(健康上の理由でやらないほうが良い場合もある)
私がドイツでいた厩舎はその条件が全て満たされた、馬天国のような所だった。
野生の馬
2001年12月14日馬を理解する上で、野生の馬がどういう生き物であるかを知るのは大切なことだ。何故なら、馬が本来持っている習性や本能は尊重されるべきだからだ。人はそれを決して‘折る’ことはしてはいけない。
ついつい人間は、馬も人や、あるいは犬と同じだろうと思って、気がつかないうちに彼らの本能に反することをする。悪気はなくても、無知であることから。
愛だけでは足りない。
ついつい人間は、馬も人や、あるいは犬と同じだろうと思って、気がつかないうちに彼らの本能に反することをする。悪気はなくても、無知であることから。
愛だけでは足りない。
信頼とレスペクト
2001年12月13日馬と付き合う上で、一番大切なのは、信頼関係を築き、馬の敬意を得、馬の存在にも敬意を払うことだとカーチャは言った、初めて聞く言葉だった。
私はそれまで、ただただ馬に優しく接しようと努めていた。精一杯可愛がって、優しくしてやれば、馬も私のことを分かってくれるだろう、と思っていた。しかし、その思いはそれまで常に片思いだった。
可愛がることは正しい。優しくすることも正しい。しかしその前に、お互いの間に信頼とレスペクトがなければならない。
馬は人間を信頼しているから、自分の背に乗せる。人間に敬意を払っているから、その指示に従う。その代わりに、人間も馬を信頼する。その背に全身を委ねる。そしてパートナーに対しての敬意から、ただ単に命令するのではなく、その声に耳を傾ける。そうして初めて馬と人の共同作業が可能になる。
信頼とレスペクトの存在しない親子関係を考えてみれば、よく分かる。あるいは夫婦。仕事場の人間関係。信頼もレスペクトもない全ての生き物同士の関係は、上手くいくはずがないし、決して心地良いものではない。
私はそれまで、ただただ馬に優しく接しようと努めていた。精一杯可愛がって、優しくしてやれば、馬も私のことを分かってくれるだろう、と思っていた。しかし、その思いはそれまで常に片思いだった。
可愛がることは正しい。優しくすることも正しい。しかしその前に、お互いの間に信頼とレスペクトがなければならない。
馬は人間を信頼しているから、自分の背に乗せる。人間に敬意を払っているから、その指示に従う。その代わりに、人間も馬を信頼する。その背に全身を委ねる。そしてパートナーに対しての敬意から、ただ単に命令するのではなく、その声に耳を傾ける。そうして初めて馬と人の共同作業が可能になる。
信頼とレスペクトの存在しない親子関係を考えてみれば、よく分かる。あるいは夫婦。仕事場の人間関係。信頼もレスペクトもない全ての生き物同士の関係は、上手くいくはずがないし、決して心地良いものではない。
フィーリング
2001年12月12日私に欠けているものは何か。それはどうやら、フィーリングというものらしかった。馬の体に、馬の心に今何が起こっているか、ということを感じる感覚。
カーチャ曰く、「馬の体を感じろ。馬の体になにが起こっているかを感じろ。馬の背の上に乗っていながら、馬の後肢を感じろ。馬の体の、どの筋肉が緊張しているのか感じろ。そして、馬が何を感じ、何を考えているのかを感じろ。」
新しい世界観だった。私は全身の全ての感覚を研ぎ澄ませた。しかし何も感じられなかった。私は待った。感覚を研ぎ澄ませたまま、何かが起こるのを待った。
カーチャ曰く、「馬の体を感じろ。馬の体になにが起こっているかを感じろ。馬の背の上に乗っていながら、馬の後肢を感じろ。馬の体の、どの筋肉が緊張しているのか感じろ。そして、馬が何を感じ、何を考えているのかを感じろ。」
新しい世界観だった。私は全身の全ての感覚を研ぎ澄ませた。しかし何も感じられなかった。私は待った。感覚を研ぎ澄ませたまま、何かが起こるのを待った。
ケンタウロス
2001年12月11日ケンタウロスとは、ご存知、ギリシア神話に出てくる半神半馬の神様である。腰から上が人間の姿、下半身は馬。勿論空想の生き物だが、私はケンタウロスはいたのだと思うのだ。芸術的なまでに巧みに、そして美しく、馬を自分の体の一部のように乗りこなすことのできる人々を、そのように表現したのではないか、と。
その考えは、私がもう少し上手くなって、調子の良いときは馬が自分の体の一部になっているような感触を味わったときに、思いついたのだが。
その考えは、私がもう少し上手くなって、調子の良いときは馬が自分の体の一部になっているような感触を味わったときに、思いついたのだが。
プライドは捨てること
2001年12月10日バスコには完敗した。日本では、人並みかそれ以上には乗れると思っていた私にとってはショックだった。何も、難しいことをしようとしたわけではない。簡単なことが全くできなかったのだ。私はもう自分は基礎はできていて、ドイツではその上のレベルのことを習おうくらいに思っていたのだ。その自信が完全に揺らいだ。
何日かして、色々なことが日本と違うのに気がついた。馬の一頭一頭が、表情豊かで個性がある。人は馬に、人間の子供に対するように話かける。(日本人も話しかけるが、もう少し控えめである)そして人間の言葉に、ドイツの馬たちは日本の馬たちよりも反応を示す。みんな、お行儀がいい。人と付き合うのが上手い。なんなんだ?何が違うんだ?
馬の乗り手として、カーチャが天才であるということはすぐに感じた。馬とカーチャは、いつも調和のとれた一つの絵になっている。無駄な動きが全くない。ごくごく自然に、馬に命令するというよりは、促す。ここまで来ると芸術だ。私は胸が熱くなるような興奮を覚えた。
私は全てを学びたいと思った。馬の乗り方、接し方、全て。私が今まで正しいと思っていたことや、できると思っていたことは全て忘れることにした。プライドも先入観も捨てて、私は実は初心者よりもひどいらしいということを認めた。だから弟子にしてくれ、という思いだった。
何日かして、色々なことが日本と違うのに気がついた。馬の一頭一頭が、表情豊かで個性がある。人は馬に、人間の子供に対するように話かける。(日本人も話しかけるが、もう少し控えめである)そして人間の言葉に、ドイツの馬たちは日本の馬たちよりも反応を示す。みんな、お行儀がいい。人と付き合うのが上手い。なんなんだ?何が違うんだ?
馬の乗り手として、カーチャが天才であるということはすぐに感じた。馬とカーチャは、いつも調和のとれた一つの絵になっている。無駄な動きが全くない。ごくごく自然に、馬に命令するというよりは、促す。ここまで来ると芸術だ。私は胸が熱くなるような興奮を覚えた。
私は全てを学びたいと思った。馬の乗り方、接し方、全て。私が今まで正しいと思っていたことや、できると思っていたことは全て忘れることにした。プライドも先入観も捨てて、私は実は初心者よりもひどいらしいということを認めた。だから弟子にしてくれ、という思いだった。
初めてバスコに乗ったこと
2001年12月9日「バスコは完璧な馬だから」と、カーチャが言った。「あなたが正しいことをすれば、正しい反応をする。間違った指示には彼は従わない。」
バスコに初めて乗ったときのショックを、今でも覚えている。私が今まで乗った馬とは全く勝手が違った。はっきり言って、どうにもならなかった。話が通じなかったのだ。
人間は馬に、手綱を握っている手や、鞍に乗っている座り(おしり)や、馬の腹に触れている脚で微妙な指示を与える。それを日本語では扶助と呼ぶ。
私は正しい扶助を与えた。つもりだった。が、バスコは全く私の思ったような反応を返さなかった。鼻面を天井に向けて、全く動かない。かと思うと勝手に前へ進み始める。私の思うところで曲がってくれない。コントロールが利かない。(バスコも何をしていいか分からず戸惑っていた。)
それでも私は馬術部で養った根性で、なんとかこの馬に言うことを聞かせようとして、無闇に手綱を引っ張った。バスコは口角から血を出した。
カーチャは目を覆っていた。2年ほど後に打ち明けてくれたが、この時、彼女は私を日本に帰そうと思ったらしい。絶対にこのちびの日本人は本当の馬術を学ばない。腕力でしか乗ろうとしていない。センスゼロ。と思ったのだ。でも私があまり楽しそうに(楽しそうだったか?)乗っていたので、しばらく様子を見る気になったのだそうだ。私としては、幸運にも。
バスコに初めて乗ったときのショックを、今でも覚えている。私が今まで乗った馬とは全く勝手が違った。はっきり言って、どうにもならなかった。話が通じなかったのだ。
人間は馬に、手綱を握っている手や、鞍に乗っている座り(おしり)や、馬の腹に触れている脚で微妙な指示を与える。それを日本語では扶助と呼ぶ。
私は正しい扶助を与えた。つもりだった。が、バスコは全く私の思ったような反応を返さなかった。鼻面を天井に向けて、全く動かない。かと思うと勝手に前へ進み始める。私の思うところで曲がってくれない。コントロールが利かない。(バスコも何をしていいか分からず戸惑っていた。)
それでも私は馬術部で養った根性で、なんとかこの馬に言うことを聞かせようとして、無闇に手綱を引っ張った。バスコは口角から血を出した。
カーチャは目を覆っていた。2年ほど後に打ち明けてくれたが、この時、彼女は私を日本に帰そうと思ったらしい。絶対にこのちびの日本人は本当の馬術を学ばない。腕力でしか乗ろうとしていない。センスゼロ。と思ったのだ。でも私があまり楽しそうに(楽しそうだったか?)乗っていたので、しばらく様子を見る気になったのだそうだ。私としては、幸運にも。
カルチャーショック
2001年12月7日ドイツに行って間もなくは、カルチャーショックの連続だった。見る馬全てがスーパーホースに見え、見る人全てがオリンピック選手に見えた。ドイツでは馬術のレベルが非常に高く、乗り手の層も厚い。
何よりもまず、馬の大きさに驚いた。日本で私が見慣れていた馬たちよりもはるかに大きい。
日本で多く繁殖されているのは、温血種(サラブレット)という種類の馬である。競馬を走るので有名で、体は小ぶりで華奢、性格は繊細で、熱くなりやすく、速く走るのを得意とする。寒血種という種類は、北海道の道産子のように、体が大きく、速く走るというよりは踏ん張りがきくタイプ。性格も温血種に比べておっとりとしている。ドイツで通常、乗馬として使われるのは半血種という種類である。温血種と寒血種の中間種で、双方の良いところを合わせ持っている。すなわち、温血種ほどホットではなく、寒血種ほど緩慢でもない。スポーツとしての馬術に必要なパワーを持っていて、パワーだけでなく、エレガントさも備えている。
背中までの高さが平均160cm以上ある馬に乗ると、身長153cmの私は子供のように見えた。
何よりもまず、馬の大きさに驚いた。日本で私が見慣れていた馬たちよりもはるかに大きい。
日本で多く繁殖されているのは、温血種(サラブレット)という種類の馬である。競馬を走るので有名で、体は小ぶりで華奢、性格は繊細で、熱くなりやすく、速く走るのを得意とする。寒血種という種類は、北海道の道産子のように、体が大きく、速く走るというよりは踏ん張りがきくタイプ。性格も温血種に比べておっとりとしている。ドイツで通常、乗馬として使われるのは半血種という種類である。温血種と寒血種の中間種で、双方の良いところを合わせ持っている。すなわち、温血種ほどホットではなく、寒血種ほど緩慢でもない。スポーツとしての馬術に必要なパワーを持っていて、パワーだけでなく、エレガントさも備えている。
背中までの高さが平均160cm以上ある馬に乗ると、身長153cmの私は子供のように見えた。
海外進出
2001年12月6日私としては漠然と、ドイツで馬に乗れたらいいなあという夢を抱いていただけで、それを現実にしようとまでは考えていなかった。
どこかで私のアイデアを聞きつけた瓜生しゃんが、ある日私に言った。「ドイツで馬術を習うお話ですけど。」「はあ。やってみたいもんですねえ。」と私。「お若いうち、お早いうちがようございましゅ。」そして彼女は行動を始めた。
私に大使館に行ってビザを申請するよう指図し、自分でも早くビザが下りるように、あちこちに電話をしてあの手この手を尽くしてくれた。私はなんだかピンと来ないまま、彼女のパワーに押されて言われるがままに動いた。ドイツの先生も紹介してくれて、あちらで暮らす段取りについても話をつけてくれた。
3ヶ月後、ビザが下りた。
経済的な問題が残っていた。就労ビザはではなく、留学扱いのビザだった。「働いてお金を貯めてから行く。」という言葉に父は笑い転げた。「一生行けるものか。」当時父と仲の悪かった私はカチンと来たが、それは事実だった。そう。使えるものは、では使わせてもらおう。(その選択が正しかったかどうかは、今でも疑問。)
そして私はドイツのハンブルクへ飛んだ。
どこかで私のアイデアを聞きつけた瓜生しゃんが、ある日私に言った。「ドイツで馬術を習うお話ですけど。」「はあ。やってみたいもんですねえ。」と私。「お若いうち、お早いうちがようございましゅ。」そして彼女は行動を始めた。
私に大使館に行ってビザを申請するよう指図し、自分でも早くビザが下りるように、あちこちに電話をしてあの手この手を尽くしてくれた。私はなんだかピンと来ないまま、彼女のパワーに押されて言われるがままに動いた。ドイツの先生も紹介してくれて、あちらで暮らす段取りについても話をつけてくれた。
3ヶ月後、ビザが下りた。
経済的な問題が残っていた。就労ビザはではなく、留学扱いのビザだった。「働いてお金を貯めてから行く。」という言葉に父は笑い転げた。「一生行けるものか。」当時父と仲の悪かった私はカチンと来たが、それは事実だった。そう。使えるものは、では使わせてもらおう。(その選択が正しかったかどうかは、今でも疑問。)
そして私はドイツのハンブルクへ飛んだ。
瓜生しゃん
2001年12月5日馬術部を(大学を)卒業した後、瓜生しゃんがいなかったら、私の人生は違うものになっていただろう。
当時70歳ちょっとくらいのご婦人だった。私がいた乗馬クラブに馬に乗りに来ていた人で、お父上が外交官、旦那も外交官、日本よりも外国で暮らした時間の方が長かったらしい。当時もオーストリアと日本を行き来する生活をしていた。5カ国語を流暢に話し、日本語が一番苦手らしかった。「・・・でございましゅ。」みたいな話し方だったので、私と友人は影でひそかに、瓜生しゃんと呼んでいた。ものすごく博識で、これが良き外交官時代の最後のレディの生き残りか、と思わせる風格があった。ワインが好きで、タバコもよく吸った。話好きで、一度話し出すと止め処がなかった。すごい行動力で、何か頭に浮かぶと実行せずには納まらない。とにかくすごいインパクトの人で、2年ほど前にガンで亡くなったが、いまでもそれがピンと来ない。オーストリアか何処かで生きているような気がする。
とにかくその瓜生しゃんが、私がドイツで馬を習うことに興味を持っている、ということを耳にした。彼女がいなかったら、私はドイツに行くことなどなかっただろう。
当時70歳ちょっとくらいのご婦人だった。私がいた乗馬クラブに馬に乗りに来ていた人で、お父上が外交官、旦那も外交官、日本よりも外国で暮らした時間の方が長かったらしい。当時もオーストリアと日本を行き来する生活をしていた。5カ国語を流暢に話し、日本語が一番苦手らしかった。「・・・でございましゅ。」みたいな話し方だったので、私と友人は影でひそかに、瓜生しゃんと呼んでいた。ものすごく博識で、これが良き外交官時代の最後のレディの生き残りか、と思わせる風格があった。ワインが好きで、タバコもよく吸った。話好きで、一度話し出すと止め処がなかった。すごい行動力で、何か頭に浮かぶと実行せずには納まらない。とにかくすごいインパクトの人で、2年ほど前にガンで亡くなったが、いまでもそれがピンと来ない。オーストリアか何処かで生きているような気がする。
とにかくその瓜生しゃんが、私がドイツで馬を習うことに興味を持っている、ということを耳にした。彼女がいなかったら、私はドイツに行くことなどなかっただろう。
肋骨の話
2001年12月4日馬術部にいた4年間で、数々の軽症と、(主に馬に噛まれたり蹴られたりしてできたあざと、足の指を踏まれて爪をはがしたこと)2度の大きめの怪我をした。障碍の練習中の落馬で、一度背骨を損傷し(幸運にも軽度だったが、6ヶ月コルセットをつけて安静にしていた。)一度肋骨を折った。
肋骨は痛いんだ。あのときのことを、今でも覚えている。馬が障碍の前で急停止し、私は前方に投げ出された。(奇しくも背骨の時と同じ馬だった)右側体の側面から、障害の横木の上に落ちた。ああいう時は、時間がスローモーションになるのだな。肺に穴が空いたかと思った。激痛がして、息ができなかった。息ができない。気がつくと私は大声で叫んでいた。(「あーーー」とかなんとか。その声は、他人の声のように聞こえた。)声を出したことでやっと、肺の中に空気が入ってきた。
肋骨は痛いだけで、折れてもあまり害はなく、ラグビーの選手などは肋骨が折れたまま試合に出るのだそうだ。その事故の翌週、私はラグビー選手を見習って、痛み止めを飲んで試合に出た。成績は上々だった。
若かったなあ。
肋骨は痛いんだ。あのときのことを、今でも覚えている。馬が障碍の前で急停止し、私は前方に投げ出された。(奇しくも背骨の時と同じ馬だった)右側体の側面から、障害の横木の上に落ちた。ああいう時は、時間がスローモーションになるのだな。肺に穴が空いたかと思った。激痛がして、息ができなかった。息ができない。気がつくと私は大声で叫んでいた。(「あーーー」とかなんとか。その声は、他人の声のように聞こえた。)声を出したことでやっと、肺の中に空気が入ってきた。
肋骨は痛いだけで、折れてもあまり害はなく、ラグビーの選手などは肋骨が折れたまま試合に出るのだそうだ。その事故の翌週、私はラグビー選手を見習って、痛み止めを飲んで試合に出た。成績は上々だった。
若かったなあ。
噛んだり蹴ったりする馬の運命
2001年12月2日馬は人間より体が大きい。力もある。馬は人間よりも強い。しかし、人間とつきあっていかなければならない馬はそのことに絶対に気づいてはならない。それを知ってしまった馬は、不幸だ。人間は馬と対等の立場にあってはならない。人間はあくまで馬のボスであり、教師であり、親のようである。遊び相手ではない。
人間に不条理にいじめられたり、人間が上に立つことができなくて、人間との正しい関係を学ばなかった馬は人間を攻撃する。噛む。蹴る。立ち上がる。振り落とす。その気になれば、馬は簡単に人を殺すことができる。そして、人を殺してしまった馬は人に殺される。それ専用の牧場にただ同然でひきとられて、文字通り「潰され」て、肉になる。
馬に人間との正しい付き合いかたを教えるのは、人間の最低の義務だ。
人間に不条理にいじめられたり、人間が上に立つことができなくて、人間との正しい関係を学ばなかった馬は人間を攻撃する。噛む。蹴る。立ち上がる。振り落とす。その気になれば、馬は簡単に人を殺すことができる。そして、人を殺してしまった馬は人に殺される。それ専用の牧場にただ同然でひきとられて、文字通り「潰され」て、肉になる。
馬に人間との正しい付き合いかたを教えるのは、人間の最低の義務だ。
Shy Boy
2001年12月1日ちなみに、Shy Boyといのは、映画「ホース・ウィスパラー」のモデルになった、アメリカに実在する職業ホース・ウィスパラー、モンティ・ロバーツの2冊目の著書に登場する野生馬の名前。彼は、人間を全く知らないShy Boyに鞍をつけて乗ってしまう。神業だな。
いや。いい名前だと思って。
いや。いい名前だと思って。
途中経過 4
2001年11月30日大学の運動部の最終目的は勝つこと。少しでも良い成績を残すこと。そうしないと、部費は削られ部の存続に関る。しかしあそこにいた馬たちにとって、そんなこと知ったことだったろうか???
私も含め、学生たちは無知だった。馬という生き物の性質や扱い方を知らずに、知らないうちに彼らを虐待していた。2人も3人もの学生に乗られて疲れ果てた馬を、汗をかいたからと言って、1時間以上もかけてシャンプーして、それで馬は喜んだだろうか?彼らは一刻も早く馬房に戻って休息をとりたかったはずだ。乗り手の思うように動かない馬を、鞭で叩いて懲戒する必要があったろうか?どうして彼が指示に反応しないのかを考える前に?彼らの言い分を聞く前に?原因は90%人間にあるのに!
馬術部では、人を噛んだり蹴ったりする馬が多かった。学生たちは無知で、馬たちにどうやって人間と付き合うべきなのかを教えることができなかった。私はあまりにも無知だった。
私があの気高く知的で友好的な生き物の性質と、その付き合いかた、話合いかたを学ぶのは、もう少しあとになる。
あそこで私が学んだのは、根性かな。体と心に無理をさせてでも、責任を果たすこと。あの時間はやはり必要だったのだと、最近思うようになった。次のステップに結びつくために、必要だったのだ。
私も含め、学生たちは無知だった。馬という生き物の性質や扱い方を知らずに、知らないうちに彼らを虐待していた。2人も3人もの学生に乗られて疲れ果てた馬を、汗をかいたからと言って、1時間以上もかけてシャンプーして、それで馬は喜んだだろうか?彼らは一刻も早く馬房に戻って休息をとりたかったはずだ。乗り手の思うように動かない馬を、鞭で叩いて懲戒する必要があったろうか?どうして彼が指示に反応しないのかを考える前に?彼らの言い分を聞く前に?原因は90%人間にあるのに!
馬術部では、人を噛んだり蹴ったりする馬が多かった。学生たちは無知で、馬たちにどうやって人間と付き合うべきなのかを教えることができなかった。私はあまりにも無知だった。
私があの気高く知的で友好的な生き物の性質と、その付き合いかた、話合いかたを学ぶのは、もう少しあとになる。
あそこで私が学んだのは、根性かな。体と心に無理をさせてでも、責任を果たすこと。あの時間はやはり必要だったのだと、最近思うようになった。次のステップに結びつくために、必要だったのだ。
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